無常・苦・無我≪仏陀の解脱と悟り≫   解脱とは 悟りとは どこまで理解できるでしょう   全ては無常である 無常であるものは苦である 苦であるものは非我(無我)であることを理解することに縁って解脱へと至る

無常・苦・無我

無常・苦・無我

全ては、無常・苦・無我なるものであるから、それを知り理解して、厭離・離貪・解脱に励みなさい。

眼(耳鼻舌身意)は無常であると、知り、見る者には、無智は消滅し、智慧が生じる。

色(声香味触法)は無常であると、知り、見る者には、無智は消滅し、智慧が生じる。

六処と六境の接触によって生じる受(感覚)(苦・楽・不苦不楽)は無常であると知り、見る者には、無智が消滅し、智慧が生じる。

現生的な法(実際に確認できる法)

今此処で誰にでも確認できる方法とは、眼(耳鼻舌身意)により色(声香味触法)を見ると、色を感知し、色に対する貪りを経験する。また、「私に色(声香味触法)に対する貪りがある」「貪りを持っている」と自ら気付くのである。

この現生的な法は、即時的で、「自分で見ろ」と示し、よく涅槃に導くものであるから、智者の知るべき法であるというのである。

凡夫は、苦なる受に触れられると、嘆き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱する。

彼は二重の受を感じるのである。それは、身における受と、心における受とである。

また、苦なる受に触れられると、怒りを感じ、苦なる受に対して怒りを感じると、眠れる怒りの素質が彼を捉える。

また、苦なる受に触れられると、欲楽を求める。凡夫は欲楽のほかには、受苦から逃れる方途を知らないからである。欲楽を求めると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。

苦でも楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることになる。

彼は、それらの受の生起も滅尽も、その味わいも、禍も、あるいは、それからの脱出法も知らないのである。

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