ヨーガとは心の作用を止滅することである 急ぐこと無く、細心の注意をこめてそれらを学び、それらに瞑想せよ。 その中の最も有益なものは、いくつか唱えるのもよい。 これよりヨーガを解説しよう。 ヨーガとは心の作用を止滅することである。 心の作用が止滅されてしまった時には 、見る者である真我は、それ本来の状態に止まる。 その他の場合に合っては、真我は、心の色々な作用に同化した形をとっている。 心の作用は五種類ある。それらは煩悩性のものと、非煩悩性のものとに分けられる。 心の作用 五種類の心の作用とは、正知識、錯覚、思考、睡眠、記憶である。 正知識とは、直接経験による知識、推理による知識、聖教に基づく知識の三種である。 錯覚とは、対象の実体に基づいていない不正な知覚のことである。 思考とは、言葉の上だけの知識に基づいていて、客観的対象の無いものである。 睡眠とは、空無を対象とする心の作用のことである。 記憶とは、過去に経験した対象が失われていないことである。 修習(実修)と離欲 心の様々な作用は、修習(実修)と離欲によって止滅する。 修習とは、心の流れの静止をもたらそうとする努力のことである。 修習は長時にわたり、休むこと無く、真剣に実行されるならば、堅固な基礎を持ったものになる。 離欲とは、見たり、聴いたりした対象の全てに対して無欲になった人が抱く、自覚である。 離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が抱くものであって、三徳そのものに対する愛着からさえも離れることである。 三昧 熟慮、検討、歓喜、自我意識を伴っている三昧は、有想三昧と呼ばれる。 無想三昧とは、心の作用の静止へ導く観念の実修の結果として、潜在記憶だけが残っている状態である。 神霊たちと、自性に没入した人々には自然発生的な無想三昧がある。 ヨーガ行者たちの無想三昧は、信念(信仰)、努力、念想(記憶)、三昧、智恵を手段として得られる。 解脱を求める強い情熱を持つ行者には、無想三昧の完成は早い。 強い情熱という中にも温和、中位、破格の差があり、それに応じて完成の早さも違う。 定 心が静止したら、心は真我、認識器官、認識対象のどれかに止まって、それに染まる。これが定(三昧、同化)である。 定の中で、言葉とその示す対象とそれに関する知識が有るものは有尋定と呼ばれる。 記憶が浄化されると、意識が無くなったようになり、対象だけが輝き現ずる。これが無尋定と呼ばれる定である。 この二つの定に準じて、微妙な対象に関係する有伺定と無伺定は説明される。 微妙な対象とは、対象として存在しなくなり、何も定義できないものに至る。 以上が有種子三昧である。 無伺定が純粋になった時、内面的清澄が生ずる。 内面の清澄の中に、真理のみを保持する智恵が生れる。 この智恵の対象は個々特殊なものであるから、伝承や推理の知とは、対象の点で異なる。 この智恵から生れる行は、他の行の発現を妨げる性質を持つ。 最後に、この真智をも止めてしまった時、一切の作用が止ってしまうから、無種子三昧が実現する。 実修法(自在神祈念) 自在神への祈念(信頼、献身、愛)によっても、無想三昧に近づくことが出来る。 自在神とは、煩悩(想念)、行為、結果、記憶などによって汚されていない特別な真我である。 自在神には、一切種子の中の最高のものが備わっている。 自在神は太古の導師達にとっても導師なのである。自在神は時間を超えているから。 自在神を言葉で表したのが、聖音「オーム」である。 行者は、この音を反復誦唱し、この音が表す自在神を念想せよ。 この実修によって、内観の力を得、あらゆる障害を無くすることが出来る。 ヨーガに対する障害 ヨーガに対する障害とは、あらゆる心の散動状態とその原因である。 苦悩、不満、手足の震え、荒い息遣い等が心の散動状態に伴って起る。 実修法(心の散動を対治する方法) 心の散動を対治するには、ある一つの事柄を対象として、繰返しこれに思念を集中させなさい。 慈(善意)、悲(同情)、喜(感謝)、捨(無関心)は、他人の幸、不幸、善行、悪行を対象として抱く感情であるが、これらの感情を念想することから、心の清澄が生ずる。 息を出す法と息を止めておく法とによっても、心の清澄が得られる。 特定の対象を持った感覚が発現したなら、それは心を否応なく不動にする。 憂いを離れ、白光を帯びた感覚が発現すれば、心を否応なく不動にする。 対象に対する欲心を離れた聖者の心を思念することも、心を否応なく不動にする。 夢や熟睡の中で得た経験を対象とする念想も、心の不動な状態をもたらす。 自分の好きなものを念想することによっても、心は不動になる。 心が不動になった人には、全てのものに対する支配力が生ずる。 浄化法(行事ヨーガ) 苦行(禁欲)、読誦(真言念誦)、自在神祈念(信頼、献身、愛)を浄化法(行事ヨーガ)という。 浄化法は、煩悩の力を弱め、三昧を実現する。 煩悩とは 煩悩には、無明、我想、執着、憎悪、生命欲がある。 無明はその他の煩悩の田地である。 無明とは、無常、苦、非我、不浄であるものを、定、楽、我、浄と見ることである。 我想とは、真我と心を同一視することである。 執着とは、快楽に囚われた感情である。 憎悪とは、苦に囚われた感情である。 生命欲は、賢明な人にもある。 煩悩を除去する方法 煩悩は、潜在している間は、心の逆転変(本源に向うこと)によって除去することが出来る。 既に現れている煩悩は、定慮によって除去することが出来る。 除去するべきもの 修行者にとっては、存在の全てが苦であり、修行によって除去するものは未来の苦である。 見るものと見られるものとの結合こそが、除去する苦の原因である。 見られるものは、真我の経験と解脱とをその目的としている。 両者の結合の原因は無明である。 無明が無くなれば、結合もなくなる。これが除去であり、見るものの独存位である。 弁別智 除去の手段は、純粋な弁別智(識別智)である。 弁別智を得たものには、最高の真智(解脱知見)が生れる。 ヨーガの実修によって、心の汚れが消え、智恵の光が増し、弁別智が現れる。 ヨーガの八支分 |